計画を立てるということ

 さようなら2013年、こんにちは2014年ということで、また新しい一年が始まった。気持ちを新たに目標を立てる人が多い時節であるが、かくいう自分は未だに2013年の振り返りもままならない有り様。大晦日は0時前まで終わらない大掃除に明け暮れ、百八を優に超える煩悩を抱えたまま年を越し、元旦の帳尻合わせすらできないままこうして三が日を終えようとしている。一年の計は何とやらという格言に預かれば、今年の趨勢もお察しというものであろう。

 そんな夏休み明けの始業式に宿題を提出できない小学生がそのまま大きくなった僕であるが、計画を立てること自体は小さい頃から好きだったりする。達成の出来不出来にかかわらず、目標を立てそれを振り返るという行為自体に惹かれるのである。有名な計画作成のフレームワークに「PDCAサイクル」というものがある。計画を立て(Plan)、実行し(Do)、成果を確認し(Check)、次に向けて改善する(Action)ことを繰り返すというものであり、このサイクルを回す中でよりよいアウトプットを続けていくものらしい。偉そうな研修講師やビジネス書の著者が口を酸っぱくして言っているので、聞き覚えがある人も多いのではないだろうか。

 本来であればP→D→C→Aと回してこその計画作成であるが、ズボラな僕が意識して行うのはだいたいがPlanとCheckの2つだ。ざっくりとやりたいことを書き出したら最後、定期的にそれを確認して消しこむようなことはほとんどしない(仕事の場合はこの限りではない)。半年後や一年後に見返し、「そういえばそんなこと考えていたな」と笑いのネタにするためだけに計画を立てるのだ。そんな管理の仕方だから、始まりの高揚感そのままに真っ白なノートに羅列された数多の目標は、往々にして忘れた頃にブーメランと化し舞い戻る。それでも心から実行したいと願っていたものはだいたい叶えられているものであるし、藻屑と化した意識の高い目標を鼻をほじって眺めるのもこのうえなく楽しかったりするのである。

 もちろん、「明確な到達点を描き細分化して〆切を決めて云々」という偉い人達の言葉の重要性は、自堕落な僕とて十分理解できる。それに倣わないのは一つは飽きっぽくて根気がない性分に依るものであるし、もう一つは寄り道を心ゆくまで楽しみたいからだ。後者について、僕の大好きな作家である山田ズーニーさんはこんな言葉を残している。

 高校から大学、それから企業と進んだ自分は、ほとんど、何も考えていなかった。なんとなく「目標達成」 みたいなことで、日々を送ってきたように思う。高校にいるときは、とりあえず、「受験合格」みたいな目的を立て、それに向かって、まあ、がんばる。達成されたら、喜んで、目的は達成してしまうと、向かうものがなくなるから、しばらく弛緩して、また、当面の目的を立てる。次は「卒論」 とか「就職」とか、就職したら今度は、仕事で、次々に掲げられる目的をクリアする。
 「目的達成」 に信を置く自分のプロデュース。これは若い自分にとっては良かったと思う。こうやっていくと、本来なまけものの自分でも、かなりがんばれた気がする。 ただ、この欠点は目的達成のために頑張り過ぎてしまい、いまを犠牲にし続けるようなことになる点だ。 目的には、できるだけ早く、効率よくたどりついた方がいい。すると、目的が達成されないとか、失敗、回り道することは、単に「挫折」ということになってしまう。だから、「目的達成」だけの生き方だと、どこか、ポキン!と弱いなあ、と思った。


山田ズーニー「おとなの小論文教室」より*1


 目標を立て、不断の努力で初志を貫く人達のことを僕は心から尊敬している。そうありたいと願って沢山のものを得られた日々もあったし、同じ数だけの自己嫌悪に苛まれた日々もあった。僕はそんな生き方にほとほと疲れ果ててしまった人間なので、自分を律して階段を一足飛びで行く人達のことは本当に凄いと思う。

 けれども、寄り道を大切にする生き方もそうそう悪いものではない。大阪から東京への移動を新幹線の2時間半で済ますのも一興であるし、時刻表片手に18切符で鈍行に揺られるのも味がある。ただ東へ進むとだけ決めヒッチハイクを繰り返すのもきっと楽しいだろう。素早く到着して八重洲のスタバで飲むコーヒーも、終わらない静岡間の移動に憂鬱になりながら食べる駅弁も、車が捕まらず夜のサービスエリアですする蕎麦もきっとどれも美味しいはずだ。道中何があっても、行き先さえ決めていればいずれは目的地には着く。寄り道が華を添えてくれることが、多分、人生には沢山ある。

 一方で、行き先を決めない寄り道ほど危ういものはない。誰しもが一度は通る道ではあるだろうし、思春期のそれらは非常に大切なものであると思うが、そこそこの大人になってまで青い鳥を探し続けるのは少し辛いものがある。なので、寄り道を大切にするときは進行方向だけはしっかりと踏まえなければならない。僕が墓場に持って行きたい一冊に、ミヒャエル・エンデの「モモ」がある。小学生で読んで以来、未だに節目節目で読みなおしている本であるのだが、その中の一節にこんな言葉がある。主人公であるモモに対して、道路掃除を生業にしているベッポという老人が伝える言葉だ。

「なあ、モモ」と、ベッポはたとえばこんなふうにはじめます。

「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おそろしくて、これじゃとてもやりきれない。こう思ってしまう。」

「そこで、せかせかと働きだす。どんどんスピードを上げていく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちーともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて動けなくなってしまう。道路はまだ残っているのにな。こういうやり方はいかんのだ。」

「一度に道路ぜんぶのことを考えてはいかん。わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」

「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだ。たのしければ仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらなきゃあだめなんだ。」

「ひょっと気がついた時には、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかはじぶんでもわからんし、息もきれてない。」

「これがだいじなんだ。」


ミヒャエル・エンデ「モモ」より −


 2014年、楽しいこともあるだろうし、当然ながら面倒くさいこともあるだろう。幸いにもあと2日間だけ残っている冬休み、今年の行き先だけをしっかり定め、後はその道中を一つ一つ楽しんでいきたいと思う。新年明けましておめでとう。本年もどうぞよろしく。

*1:文中に中略あり